老父と暮らす(その9) : 父は変わっている(その1)
- 2019/01/22
- 22:41
実は、親父に関することを何度か書きかけたのだが、どうにも上手く書けない。ここしばらく、書いては止めて、書いては止めての繰り返しだった。
だから、しばらくブログの更新が出来ませんでした。
父と一緒に住み始めて一月半。今更ながら、父はつくづく変わった人間だと思う。
彼は「普通の日本人が知っていると思われること」をおおよそ知らない。
先日、僕が料理をしたら、父が後片付けをすると申し出てくれた。ありがたいことだと思い、父に食器洗いを頼んだ。
ところが、父が茶碗を洗うのを傍目で見てちょっと驚いた。父は先ず、茶碗の中に液体洗剤をドクドクと注いで、スポンジで洗い出したのだ。
「お父さんは、いつもそんな食器の洗い方をするの?」と僕が尋ねると、父は「?」という顔で僕を見る。……いつもそんな洗い方をしていたらしい。
僕は、洗剤はスポンジに少し垂らせば良い、お父さんが今茶碗に注いだ量だと、皿が50枚くらい洗える……と説明した。
昭和一桁の男は台所になんぞ立たないんだから食器の洗い方なんて知らないのは当然だ!とおっしゃる方もいらっしゃるかもしれない。
しかし、食器の洗い方というのは、態々誰かに教わるものではなく、日に何度も流れる食器用洗剤のTVコマーシャルだとか、ドラマに出て来るキッチンのシーンなどで、誰もが「それとなく」目にして、「何となく」知るものではないだろうか?
食器の洗い方を例に出したが、他にも「普通はそれくらい知っているでしょ?」ということが、父の知識からはことごとく欠落している。
以前も書いたが、父に見えているのは自分の手元を中心とした半径30㎝くらいの狭い世界で、隣で誰かが食器を洗っていても、誰かがコーヒーを淹れていても、誰かが掃除機をかけていても、父の目には全く入っていないらしい。
だからそういった「洗い方」「淹れ方」「かけ方」のような、「生活のノウハウ」がゼロなのだ。
誰もが、日々の生活の中で、「それとなく」「何となく」「見たり」「聞いたり」して、「いつの間にか知っている・身に付いている」筈の「生活の常識」のようなものが父の中には全く蓄積されていないのだ。

※皿の洗い方も「ところ変われば……」で、僕の知っているイギリス人は変わった皿の洗い方をする。①先ず、シンクにお湯を溜める。②その中に、お湯が泡立つ程度の洗剤を注いで「お湯で溶かした薄い洗剤液 ↑」を作る。③その中に皿を入れてスポンジでジャブジャブ洗う。④真水ではすすがずに、そのまま水切りかごに上げる。適当に水が切れたら乾いた布で拭いて終わり。……「え? 水ですすがなくて大丈夫なの?」と横から訊いたら、「そりゃあ、今洗ったばかりだからキレイさ」と言われた。そういう問題じゃなくて、その洗い方だと我々のは次の料理で洗剤をも食べることになるのだが…… この洗い方が、その友人だけのやり方なのか、多くのイギリス人がそのような洗い方をするのか、あるいは、欧米ではメジャーな洗い方なのかは不明。ひょっとすると、いちいち水ですすぐなんて洗い方は日本人だけがやっている「変わった洗い方」なのだろうか? ああ、だんだん皿の洗い方が解らなくなって来た。
これを書きながら色々と考えたのだが、我々は「自分と関係のあること」は覚えようとするし、そうでないものには関心すら払わない。
例えば、ある人間が、「何かしらややこしいこと」に四苦八苦していたとする。もし、その「ややこしいこと」の順番が、次に自分に回って来るとしたら、我々は必死になって、その「ややこしいこと」の手順なりやり方なりを覚えようとするだろう。しかし、それが自分に全く関係のないことであれば、我々はその「ややこしいこと」に手こずっている人間の必死の形相を「薄ら笑いで眺める」だけだ。
父にとって、生活のなかの全てのことは「自分には永遠に順番が回って来ない他人事」でしかないもかもしれない。
我々は、自分を取り囲む世界の、様々な人間や、モノと繋がって生きている。その繋がりが強いほど、我々はその人やモノに関心や興味を持ち、その人やモノを「知ろう」とするのではないか?
父は自分を取り囲む世界の色々なモノを、「自分と関連付けて捉えること」が出来ないのだ。だから、何事も他人事でしかなく、何も知らないのだ。
父にとって「知る」ということは、白衣を着た「誰か」が、黒板に何かを書きながら講義することを、ノートに書き留めること、いわゆる「勉強すること」だけで、そうやって「勉強したこと」以外の知識は、父の頭はことごとくスルーしてしまう作りになっているのかもしれない。
しかし、そうやってノートに書き留めたことは、全て父の頭の中に入った。だから父は研究の道を選び、35歳の若さで大学教授になった。
だけど、食器の洗い方を始めとする、一見どうでも良い、しかし、それが積み重なって我々の生活を形作っていく「大切な生活の知識」は全く身に付いていない。
同じ理屈で、父は世情に疎い。
同じ理屈で、父は人との接し方というものを理解していない。
その前に、父は、とにかく人と接することが苦手なのだ。苦手を通り越して、苦痛なのかもしれない。
今、上に書いたことが、父の「性格の問題」なのか、僕が疑っている「自閉症スペクトラム」の特性なのか、今の段階では判らない。
そんな父とこれから上手く暮らして行く方法を、今、僕は模索している。
だから、しばらくブログの更新が出来ませんでした。
父と一緒に住み始めて一月半。今更ながら、父はつくづく変わった人間だと思う。
彼は「普通の日本人が知っていると思われること」をおおよそ知らない。
先日、僕が料理をしたら、父が後片付けをすると申し出てくれた。ありがたいことだと思い、父に食器洗いを頼んだ。
ところが、父が茶碗を洗うのを傍目で見てちょっと驚いた。父は先ず、茶碗の中に液体洗剤をドクドクと注いで、スポンジで洗い出したのだ。
「お父さんは、いつもそんな食器の洗い方をするの?」と僕が尋ねると、父は「?」という顔で僕を見る。……いつもそんな洗い方をしていたらしい。
僕は、洗剤はスポンジに少し垂らせば良い、お父さんが今茶碗に注いだ量だと、皿が50枚くらい洗える……と説明した。
昭和一桁の男は台所になんぞ立たないんだから食器の洗い方なんて知らないのは当然だ!とおっしゃる方もいらっしゃるかもしれない。
しかし、食器の洗い方というのは、態々誰かに教わるものではなく、日に何度も流れる食器用洗剤のTVコマーシャルだとか、ドラマに出て来るキッチンのシーンなどで、誰もが「それとなく」目にして、「何となく」知るものではないだろうか?
食器の洗い方を例に出したが、他にも「普通はそれくらい知っているでしょ?」ということが、父の知識からはことごとく欠落している。
以前も書いたが、父に見えているのは自分の手元を中心とした半径30㎝くらいの狭い世界で、隣で誰かが食器を洗っていても、誰かがコーヒーを淹れていても、誰かが掃除機をかけていても、父の目には全く入っていないらしい。
だからそういった「洗い方」「淹れ方」「かけ方」のような、「生活のノウハウ」がゼロなのだ。
誰もが、日々の生活の中で、「それとなく」「何となく」「見たり」「聞いたり」して、「いつの間にか知っている・身に付いている」筈の「生活の常識」のようなものが父の中には全く蓄積されていないのだ。

※皿の洗い方も「ところ変われば……」で、僕の知っているイギリス人は変わった皿の洗い方をする。①先ず、シンクにお湯を溜める。②その中に、お湯が泡立つ程度の洗剤を注いで「お湯で溶かした薄い洗剤液 ↑」を作る。③その中に皿を入れてスポンジでジャブジャブ洗う。④真水ではすすがずに、そのまま水切りかごに上げる。適当に水が切れたら乾いた布で拭いて終わり。……「え? 水ですすがなくて大丈夫なの?」と横から訊いたら、「そりゃあ、今洗ったばかりだからキレイさ」と言われた。そういう問題じゃなくて、その洗い方だと我々のは次の料理で洗剤をも食べることになるのだが…… この洗い方が、その友人だけのやり方なのか、多くのイギリス人がそのような洗い方をするのか、あるいは、欧米ではメジャーな洗い方なのかは不明。ひょっとすると、いちいち水ですすぐなんて洗い方は日本人だけがやっている「変わった洗い方」なのだろうか? ああ、だんだん皿の洗い方が解らなくなって来た。
これを書きながら色々と考えたのだが、我々は「自分と関係のあること」は覚えようとするし、そうでないものには関心すら払わない。
例えば、ある人間が、「何かしらややこしいこと」に四苦八苦していたとする。もし、その「ややこしいこと」の順番が、次に自分に回って来るとしたら、我々は必死になって、その「ややこしいこと」の手順なりやり方なりを覚えようとするだろう。しかし、それが自分に全く関係のないことであれば、我々はその「ややこしいこと」に手こずっている人間の必死の形相を「薄ら笑いで眺める」だけだ。
父にとって、生活のなかの全てのことは「自分には永遠に順番が回って来ない他人事」でしかないもかもしれない。
我々は、自分を取り囲む世界の、様々な人間や、モノと繋がって生きている。その繋がりが強いほど、我々はその人やモノに関心や興味を持ち、その人やモノを「知ろう」とするのではないか?
父は自分を取り囲む世界の色々なモノを、「自分と関連付けて捉えること」が出来ないのだ。だから、何事も他人事でしかなく、何も知らないのだ。
父にとって「知る」ということは、白衣を着た「誰か」が、黒板に何かを書きながら講義することを、ノートに書き留めること、いわゆる「勉強すること」だけで、そうやって「勉強したこと」以外の知識は、父の頭はことごとくスルーしてしまう作りになっているのかもしれない。
しかし、そうやってノートに書き留めたことは、全て父の頭の中に入った。だから父は研究の道を選び、35歳の若さで大学教授になった。
だけど、食器の洗い方を始めとする、一見どうでも良い、しかし、それが積み重なって我々の生活を形作っていく「大切な生活の知識」は全く身に付いていない。
同じ理屈で、父は世情に疎い。
同じ理屈で、父は人との接し方というものを理解していない。
その前に、父は、とにかく人と接することが苦手なのだ。苦手を通り越して、苦痛なのかもしれない。
今、上に書いたことが、父の「性格の問題」なのか、僕が疑っている「自閉症スペクトラム」の特性なのか、今の段階では判らない。
そんな父とこれから上手く暮らして行く方法を、今、僕は模索している。
スポンサーサイト

