母の認知症(その75) : ケアマネージャーに会ったこと(その2)
- 2016/10/06
- 14:01
さて、前回からの続きになるが、父の問題についてもケアマネージャーと色々と話した。
まあ、結論から言うと、「あまり(父に)楽をさせないようにして様子を看ましょう」という話になった。
何度も書くが、父はかつて大学である研究をしていて、その分野では世界的な権威だった。
しかし、「研究」ということを抜いてしまうと、父は「何も出来ない」「面白味も素気も無い」「色々なことで世間の平均点を大きく下回る男」になってしまう。それは男としても、夫としても、父親としてもだ。
まあ、それは今に始まったことではないので、今更文句を言っても仕方がない。
現在父は、母の3度の薬の管理、簡単な朝食の準備(トーストと野菜や果物を切ったもの)、昼飯と晩飯(弁当)や、その他の日用品の買い出し、朝夕の犬の散歩、晴れた日には洗濯などを日課としている。また、「リハビリ」という名目の、母のデイサービスのスケジュール管理もしている。
こう書き出してみると、88歳になる父の毎日の仕事としてはそれなりに大変なのだと思う。
僕も、以前から「週一くらいでヘルパーに来てもらって、掃除洗濯を頼もうか?」とか、「宅配の弁当を頼もうか?」と考えたりもしていたのだが、今のところは何もしていない。
以前も書いたが、僕が実家に滞在して、両親を旅行に連れて行ったり、昼・晩と車で食事に連れて回ったりしていると、僕に頼り切ってしまうせいか、一週間くらいの間に、みるみる父が惚(ほう)けてしまうことがよくあった。
今回、浜松に引越して来るにあたって、僕が一番危惧したのは、僕が近くに住むことが「父に及ぼす影響」だった。
現在、僕は二日に一度のペースで両親を車に乗せて晩飯を食いに出かけている。
浜松に来たばかりの頃は、毎晩、両親と食事をしていたのだが、徐々に回数を減らして、二日に一度のペースになって来ている。そのうち週に一二度に回数を減らそうと思っている。

※イギリスにある回転寿司「YO ! SUSHI」の店内の様子。僕の知っている範囲で、アメリカの寿司(これは日本人が握っている場合が多いが……)のレベルが高いのは当然として、意外なことにブラジルの寿司もレベルが高かった。サンパウロを中心に日系人が多く、寿司の歴史も古いのかもしれない。さて、イギリスの回転寿司のYO ! SHUSIだが、そのレベルやいかに? 興味のある方は、ここをクリックすると→「YO ! SHUSIのホームページ」に飛びます。寿司のみならず、トーフカツカレーやリンゴ餃子、カレービーフラーメン、CHAZUKEなんていうメニューまであります。写真だけ観る分にはなかなか美味そう。
父の最も苦手としていることの一つに「選択して・決断する」ということがある。
誰にとっても「選択・決断」という作業はそれなりに面倒だ。
例えば、5万円くらいの予算でテレビモニターを買おうと考えた場合、色々と調べてみると無数の選択肢があって、我々は「何を基準に何を選べば良いか判らない状態」となる。
家電に詳しい人間に「5万円前後でテレビを買うならこれだよ!」と、勧めてもらえば楽なのだが、タイミング良くそんなアドヴァイスがあることは稀で、我々は家電情報に疎いながらも「苦渋の選択と決断」をする羽目になる。
父の場合、生活全般に於いて、その「選択と決断」が全く出来ない。
最も簡単な例として、訪れたレストランで「自分が何を食べれば良いか?」の選択・判断が出来ないのだ。
以前、「最近のレストランは『不要な選択肢』が多すぎる」と書いたが、それ以前の問題として、父は「いくつもあるメニューから一つを選択すること」が出来ない。
例えばメニューが「ラーメン」「チャーハン」「餃子定食」の三つくらいなら、父にも選択は出来る。
しかし、そのラーメンが「醤油・味噌・塩・とんこつ」と細分化して行くと、もう駄目だ。メニューを見ている父は硬直してしまう。
しかも、以前も書いたように、最近のメニューは「昔ながらの中華そば」だの「じっくり仕込んだ熟成醤油の豚骨ラーメン」だの、店のアピール過剰と自己満足のややこしい名前のメニューが多い。そうなると父は脂汗をかき始める。
「命に係わるような料理は出て来ないから、何か適当に頼んでみたら? よほど不味かったら僕が代わりに食べるから……」と横から助け舟を出すのだが、父にとって「メニューを選ぶ」という作業は、どうやらそういう簡単な問題ではないらしい。
結局、僕が「じゃあ、僕はこの『チゲ風野菜ラーメン』お願いします」と言うと、父が横から「じゃあ、俺も同じのをもらおうかな……」となってしまう。
別に意地悪をする訳ではないが、「何を食べるか、自分で考えること」の苦手な父に、それを考えさせると言うのは、脳の老化防止にも良さそうなので、最近、僕は父より先には注文しないようにしている。
結果、父は頓珍漢な注文をしたりもするのだが、「学習」というものは、何度かの失敗の上にしか成り立たないと思っているので、僕はなるべく父に自発的に注文させるようにしている。
しかし、どうしても自分でメニューを選ぶことが苦手な父は、最近「何を食べたい?」と訊くと、「回転寿司に行きたい」と応えるようになった。
回転寿司では、ややこしい名前が並ぶメニューと対峙して悩む必要はない。名前が何であれ、流れて来るものをヒョイと手に取って食べれば良いのだ。
苦手なタッチパネルの問題はあるが、そこは目を瞑ってひたすらジッと流れて来る寿司を待っていれば良い。
父の都合とは別に、年老いた両親を連れて行く場所として、回転寿司が便利であることは確かだ。
先ず、その日の気分で「食べる時」「食べない時」の量の差の激しい母のような人間に、回転寿司はピッタリだ(しかし、回転寿司と焼き肉の場合、母はよく食べる)。
生魚の苦手な母用に、フライドポテトだの、野菜サラダだの、ラーメンだの、はてはメロンやアイスクリームまである。
そんな訳で、最近、かなりの頻度で回転寿司に足を運んでいるのだが、父のためには良くないと僕は思っている。
そもそも、僕が車で食事に連れて行かない日は、父は近くのスーパーや弁当屋まで歩いて行って、数種類の弁当から「何かを選んで」購入している訳で、「その選ぶ作業がなくなる」うえに、「ボーッと待っているだけで料理が流れて来る回転寿司」に足繫く通っていると、父の脳の機能は確実に退化しそうに思われる。
「そんな細かいことどうでもイイだろう!?」と言われそうだが、人間は元来怠け者で、「自分がやりたくないこと」は徹底して避けようとする生き物だ。歳をとるとその傾向は強くなるようだ。
父を見ていると、それがよく判る。僕への甘えもあるのだろうが、僕と一緒にいると、色々な場面で「自分で選択すること」を小狡く避けようとすることが見て取れる。
父は「車に乗って食事に出かける」のが大好きだ。
しかし、自分ではその先のことは何も考えたり決めたりしたくないのだ。
僕が店を決めて、両親を車で運んで、ついでに「この店はこれこれが美味しいから、父さんはこれを食べればいいよ」と、全て僕に選んで決めて欲しいのだ。
恐らく、食事だけでなく、生活の全てに於いて、「自分では何も考えず、誰かに選んで決めて欲しい」のだ。
そんな訳で、ケアマネージャーとあれこれ話をして、「父には、あまり楽をさせてはいけないですよね」という結論に落ち着いた。
だから、ヘルパーを入れて掃除洗濯を頼むことも、宅配弁当も当分は差し控えましょうということになった。
自分の親が、「嫌なことはなるべく避けようと小狡く振る舞う」のを見るのはどこか気分の滅入ることだ。
そんな訳で、認知症の母の問題とは別に、ちょっと手を差し伸べると、すぐに「自分で考えたり判断したりすること」から逃げようとする父との間にも、「微妙な小競り合い」が密かに進行している。
はあ、面倒だなぁ。
まあ、結論から言うと、「あまり(父に)楽をさせないようにして様子を看ましょう」という話になった。
何度も書くが、父はかつて大学である研究をしていて、その分野では世界的な権威だった。
しかし、「研究」ということを抜いてしまうと、父は「何も出来ない」「面白味も素気も無い」「色々なことで世間の平均点を大きく下回る男」になってしまう。それは男としても、夫としても、父親としてもだ。
まあ、それは今に始まったことではないので、今更文句を言っても仕方がない。
現在父は、母の3度の薬の管理、簡単な朝食の準備(トーストと野菜や果物を切ったもの)、昼飯と晩飯(弁当)や、その他の日用品の買い出し、朝夕の犬の散歩、晴れた日には洗濯などを日課としている。また、「リハビリ」という名目の、母のデイサービスのスケジュール管理もしている。
こう書き出してみると、88歳になる父の毎日の仕事としてはそれなりに大変なのだと思う。
僕も、以前から「週一くらいでヘルパーに来てもらって、掃除洗濯を頼もうか?」とか、「宅配の弁当を頼もうか?」と考えたりもしていたのだが、今のところは何もしていない。
以前も書いたが、僕が実家に滞在して、両親を旅行に連れて行ったり、昼・晩と車で食事に連れて回ったりしていると、僕に頼り切ってしまうせいか、一週間くらいの間に、みるみる父が惚(ほう)けてしまうことがよくあった。
今回、浜松に引越して来るにあたって、僕が一番危惧したのは、僕が近くに住むことが「父に及ぼす影響」だった。
現在、僕は二日に一度のペースで両親を車に乗せて晩飯を食いに出かけている。
浜松に来たばかりの頃は、毎晩、両親と食事をしていたのだが、徐々に回数を減らして、二日に一度のペースになって来ている。そのうち週に一二度に回数を減らそうと思っている。

※イギリスにある回転寿司「YO ! SUSHI」の店内の様子。僕の知っている範囲で、アメリカの寿司(これは日本人が握っている場合が多いが……)のレベルが高いのは当然として、意外なことにブラジルの寿司もレベルが高かった。サンパウロを中心に日系人が多く、寿司の歴史も古いのかもしれない。さて、イギリスの回転寿司のYO ! SHUSIだが、そのレベルやいかに? 興味のある方は、ここをクリックすると→「YO ! SHUSIのホームページ」に飛びます。寿司のみならず、トーフカツカレーやリンゴ餃子、カレービーフラーメン、CHAZUKEなんていうメニューまであります。写真だけ観る分にはなかなか美味そう。
父の最も苦手としていることの一つに「選択して・決断する」ということがある。
誰にとっても「選択・決断」という作業はそれなりに面倒だ。
例えば、5万円くらいの予算でテレビモニターを買おうと考えた場合、色々と調べてみると無数の選択肢があって、我々は「何を基準に何を選べば良いか判らない状態」となる。
家電に詳しい人間に「5万円前後でテレビを買うならこれだよ!」と、勧めてもらえば楽なのだが、タイミング良くそんなアドヴァイスがあることは稀で、我々は家電情報に疎いながらも「苦渋の選択と決断」をする羽目になる。
父の場合、生活全般に於いて、その「選択と決断」が全く出来ない。
最も簡単な例として、訪れたレストランで「自分が何を食べれば良いか?」の選択・判断が出来ないのだ。
以前、「最近のレストランは『不要な選択肢』が多すぎる」と書いたが、それ以前の問題として、父は「いくつもあるメニューから一つを選択すること」が出来ない。
例えばメニューが「ラーメン」「チャーハン」「餃子定食」の三つくらいなら、父にも選択は出来る。
しかし、そのラーメンが「醤油・味噌・塩・とんこつ」と細分化して行くと、もう駄目だ。メニューを見ている父は硬直してしまう。
しかも、以前も書いたように、最近のメニューは「昔ながらの中華そば」だの「じっくり仕込んだ熟成醤油の豚骨ラーメン」だの、店のアピール過剰と自己満足のややこしい名前のメニューが多い。そうなると父は脂汗をかき始める。
「命に係わるような料理は出て来ないから、何か適当に頼んでみたら? よほど不味かったら僕が代わりに食べるから……」と横から助け舟を出すのだが、父にとって「メニューを選ぶ」という作業は、どうやらそういう簡単な問題ではないらしい。
結局、僕が「じゃあ、僕はこの『チゲ風野菜ラーメン』お願いします」と言うと、父が横から「じゃあ、俺も同じのをもらおうかな……」となってしまう。
別に意地悪をする訳ではないが、「何を食べるか、自分で考えること」の苦手な父に、それを考えさせると言うのは、脳の老化防止にも良さそうなので、最近、僕は父より先には注文しないようにしている。
結果、父は頓珍漢な注文をしたりもするのだが、「学習」というものは、何度かの失敗の上にしか成り立たないと思っているので、僕はなるべく父に自発的に注文させるようにしている。
しかし、どうしても自分でメニューを選ぶことが苦手な父は、最近「何を食べたい?」と訊くと、「回転寿司に行きたい」と応えるようになった。
回転寿司では、ややこしい名前が並ぶメニューと対峙して悩む必要はない。名前が何であれ、流れて来るものをヒョイと手に取って食べれば良いのだ。
苦手なタッチパネルの問題はあるが、そこは目を瞑ってひたすらジッと流れて来る寿司を待っていれば良い。
父の都合とは別に、年老いた両親を連れて行く場所として、回転寿司が便利であることは確かだ。
先ず、その日の気分で「食べる時」「食べない時」の量の差の激しい母のような人間に、回転寿司はピッタリだ(しかし、回転寿司と焼き肉の場合、母はよく食べる)。
生魚の苦手な母用に、フライドポテトだの、野菜サラダだの、ラーメンだの、はてはメロンやアイスクリームまである。
そんな訳で、最近、かなりの頻度で回転寿司に足を運んでいるのだが、父のためには良くないと僕は思っている。
そもそも、僕が車で食事に連れて行かない日は、父は近くのスーパーや弁当屋まで歩いて行って、数種類の弁当から「何かを選んで」購入している訳で、「その選ぶ作業がなくなる」うえに、「ボーッと待っているだけで料理が流れて来る回転寿司」に足繫く通っていると、父の脳の機能は確実に退化しそうに思われる。
「そんな細かいことどうでもイイだろう!?」と言われそうだが、人間は元来怠け者で、「自分がやりたくないこと」は徹底して避けようとする生き物だ。歳をとるとその傾向は強くなるようだ。
父を見ていると、それがよく判る。僕への甘えもあるのだろうが、僕と一緒にいると、色々な場面で「自分で選択すること」を小狡く避けようとすることが見て取れる。
父は「車に乗って食事に出かける」のが大好きだ。
しかし、自分ではその先のことは何も考えたり決めたりしたくないのだ。
僕が店を決めて、両親を車で運んで、ついでに「この店はこれこれが美味しいから、父さんはこれを食べればいいよ」と、全て僕に選んで決めて欲しいのだ。
恐らく、食事だけでなく、生活の全てに於いて、「自分では何も考えず、誰かに選んで決めて欲しい」のだ。
そんな訳で、ケアマネージャーとあれこれ話をして、「父には、あまり楽をさせてはいけないですよね」という結論に落ち着いた。
だから、ヘルパーを入れて掃除洗濯を頼むことも、宅配弁当も当分は差し控えましょうということになった。
自分の親が、「嫌なことはなるべく避けようと小狡く振る舞う」のを見るのはどこか気分の滅入ることだ。
そんな訳で、認知症の母の問題とは別に、ちょっと手を差し伸べると、すぐに「自分で考えたり判断したりすること」から逃げようとする父との間にも、「微妙な小競り合い」が密かに進行している。
はあ、面倒だなぁ。
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